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1919年~

創業期
網干工場の高級セルロイド工場
網干工場の高級セルロイド工場
設立当初は、内外市場の好況と合同各社の技術の集約により、製品の品質も向上して、順調な滑り出しでしたが、1920年(大正9年)の第一次世界大戦後の戦後恐慌で、工場の閉鎖や人員整理、減資に追い込まれました。

その後、1921年(大正10年)前半を底として暫時回復に向かい、工場が再開され、生産能力を増強しました。

セルロイド生地の販売代理店や加工業者の消長が直ちに経営に影響を及ぼすため、設立当初からこれらの業者の健全な発展を重視する経営方針が堅持されました。

昭和初期の金融恐慌・世界恐慌下では、東京工場の閉鎖や人員整理など厳しい対応を迫られましたが、1932~33年(昭和7~8年)の景気回復とともにセルロイド業界も好転しました。この時期に長年のセルロイドの品質向上研究が大きく開花し、網干に世界第一級のセルロイド工場が完成、品質面でも製造量でもまさに世界一となり、当社製品は世界40数カ国に輸出されるに至りました。技術重視の経営方針が一貫してつらぬかれた成果であり、現在の「モノづくり」へと受け継がれています。

また、1932年(昭和7年)には、その将来性への期待から神崎工場で新たにセロハン事業に着手しました。
その頃の社会
ベルサイユ講和条約調印(1919年)
第一次世界大戦の講和条約がフランスのベルサイユで調印された。
関東大震災(1923年)
9月1日、午前11時58分関東一円を激震が襲った。火災・津波が加わって、死者9万1000人(うち焼死者7万6000人)、行方不明者の合計は4万3400人、全壊焼失家屋46万という大惨事となった。
世界恐慌 始まる(1929年)
10月24日木曜日のニューヨーク株式市場(ウォール街)の株価大暴落に端を発し、世界規模の恐慌が始まった。
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写真フィルム事業へ
東京工場に設置されたフィルム試験所全景
東京工場に設置された
フィルム試験所全景
設立当初からセルロイド事業に続く新規事業として写真フィルム事業への進出を計画、1920年(大正9年)から研究を開始しました。

1928年(昭和3年)に東京工場内に写真フイルム生地試験工場(フイルム試験所)を設置し、フィルム生地、感光剤ならびに塗布技術の研究を進めました。

フィルム製造技術の研究と並行して、1930年(昭和5年)からフィルム工場の建設計画を進め、立地調査の結果、神奈川県足柄をフィルム製造の最適地と判断して、工場建設に入りました。

将来、写真フィルム事業を大成させるためには、製造面でも販売面でもセルロイドとは異なる取組みが必要であるとの考え方から、足柄工場の竣工を間近に控えた1933年(昭和8年)に写真フィルム事業を分離し、別に新会社を設立して経営することを決定し、10数年の計画(研究)期間を経て、1934年(昭和9年)にその事業一切を継承する総合写真工業会社として、富士写真フイルム株式会社 (現 富士フイルム株式会社) を設立しました。
その頃の社会
普通選挙法成立(1925年)
3月29日、衆議院議員選挙法の改正が成立し、選挙資格のうち、納税額の制約が取り払われ、25歳以上の男子すべてに選挙権が与えられることになった。有権者は人口の約20%にあたる1250万人と一挙に4倍近くまで跳ね上がった。
5・15事件(1932年)
5月15日、海軍青年将校ら9人が首相官邸に乱入し、犬養首相を射殺した。少し遅れて、別部隊が内大臣邸、政友会本部、警視庁などを襲撃した。
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有機合成事業への進出
カーバイドからの一貫生産を目指した新潟県新井工場
カーバイドからの一貫生産を
目指した新潟県新井工場
創立当初から原料硝酸セルロースの易燃性という弱点を大きな課題として取り上げ、酢酸セルロースの製造研究を始めていました。

1933年(昭和8年)に酢酸セルロース事業に着手することを決め、その原料である酢酸などに関して、カーバイドからの一貫生産によって自給し、併せて関連薬品をも開発するという大方針を決定しました。これが現在の有機合成事業の起源です。

安価で豊富な電力の供給が得られ、良質で豊富な石灰石原石山が近隣にあり、工業用水が豊富にあることというアセチレン系有機合成工場に適した立地を調査し、新潟県新井地区が最適地であるという結論に達し、1935年(昭和10年)に新井工場を新設、カーバイドからアセチレン、アルデヒド、酢酸、無水酢酸、酢酸セルロース、酢酸エチル、アセトンと順次製造を開始しました。

酢酸セルロース製造のための最重要設備である無水酢酸については、高純度の製品が製造できるケテン法が採用され、ケテン誘導体など現在のファインケミカルに繋がっています。

1937年(昭和12年)ころから軍事資材を最優先する国策により、セルロイド生産の縮小を余儀なくされ、1941年(昭和16年)12月太平洋戦争開戦からは、全工場が軍需生産に動員されました。1945年(昭和20年)8月に太平洋戦争が終結。
堺、神崎、東京の各工場が戦渦を受けましたが、網干、新井工場が戦災を免れ、残った設備を活用して民需品生産に転換。
その後、賠償指定、会社分割などの危機を脱して、アセテート事業やその他新規事業に着手しました。
その頃の社会
米国、金融恐慌(1933年2月)
ドイツ、ベルサイユ条約軍備制限を破棄、再軍備宣言(1935年3月)
第2次世界大戦 始まる(1939年9月)
太平洋戦争 始まる(1941年12月)
イタリア、連合国に無条件降伏(1943年9月)
ドイツ、連合国に無条件 降伏(1945年5月)
日本、ポツダム宣言 受諾 太平洋戦争終結(1945年8月)